ふくおか子育てパーク

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2008年08月29日

最終話 私にとっての遊び

 これまで、子ども時代から大学に入学するまでのことを書いてきました。
 大学入学以降、悩むこと困ることは数あれど、子どもの頃に学校に行かなかったことが理由で困ることはありませんでした。せいぜい給食や修学旅行の思い出の話題についていけないことくらいでしょうか…。

 今現在、私は大学院で遊びについての考えをめぐらせています。
 私にとって、遊びは生活そのものであり、自分の想いを表現する行為でした。
 遊びは、言語がそうであるように、周囲の環境にあるものを自分のものにして、そこに自分の想いを込めて創造していくものなんだと思います。

 現代は、子どもが自由に遊べる環境が少なくなってきているようです。それと同時に私は、大人たちが自分たちの楽しみや生活のために何かを実現する姿が、少なくなったり、子どもの生活から見えないものになったりしているのではないかと心配しています。
 子どもと一緒に遊ぶわけではなくても、子どもに見えるところで、自分の想いを込めて、自分の楽しみや生活のために、絵を描いたり、本を読んだり、大工をしたり、料理をしたり、農作業をしたり、コンピューターを使ったりする、そんな何気ない大人の存在が、子どもにとってすごく価値があるものだと私は思います。
 大人たち自身が想いを込めて実現していることのなかに、遊びの素材は溢れています。それが見えるところにある限り、子どもは自分の想いを表現するために、そこから自分で面白そうな素材を発見していくのではないでしょうか。
 家族で農業を営む生活の中で、自分のホゲ娘の生活が広がり、好奇心を深めるために大学に行くようになったように。

 私はこれからも、自分の楽しみを自分のペースで深め、広げていきたいと思います。
 時にはひとりで、時には仲間と一緒に。
 子どもたちの間に紛れながら。

木で遊びながらじーっと見つめる子ども

 長々と書いてしまいました。至らない表現も多かったと思います。うまく伝わったかどうかわかりません。それでも何かちょっとでも、伝わるところがあれば幸いです。
 写真は、私が札幌の大学院にいた時代に関わっていた市民グループの活動の一場面です。チェーンソーで木を切っている大人を、木で遊びながらじーっと見つめる子どもの姿が印象的でした。

 ちなみに、私の兄たちは2人とも社会人ですが、私とはやっていることも性格もまるっきり違います。学校行かないとみんなが私みたいなマイペース人間になるとは思わないで下さいね。笑
 それでは、一ヶ月の間お付き合い頂き、ありがとうございました!

(野島智司)

投稿者 Kosodate : 16:26 | コメント (0)

2008年08月26日

第4話 大学へ

 大きくなってくると、自然に遊びも変わっていきました。
 とりわけ、何気なく投稿したプログラムが雑誌に掲載されたことをきっかけに、パソコンでのプログラミングには凝りました。そのために数学の知識も必要になって、参考書を読みました。さらには野球ゲームをしたり、家族でマージャンしたりすると、そのデータをパソコンに入力し、分析したり、グラフを作ったりして遊びました。動物の行動や宇宙や相対性理論について書かれた本やマンガ、科学雑誌も好きでよく読んでいました。
 もしかするとこういうことって普通は学校の勉強としてやるのかなぁと思うようなことも、すべて遊びの延長としてやっていました。
 身の回りのあらゆる物事がただ不思議で、知りたくて、誰に促されるわけでもなく、そういうことをもっと知りたい、深めたいという気持ちが強くなっていました。

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 さて、ここまで楽しいことばかり書いてきましたが、時には辛いことや悲しいこともありました。そういう時に支えになったのは、友達の存在です。

 私には、Yくんという幼馴染がいます。
 東京に住んでいた頃から、よくYくんの家には遊びに行っていました。大分に引っ越してからもその関係は続き、手紙をやりとりしたり、夏休みや冬休みにはお互いの家に泊まりに行きました。
 そして数年後には、Yくんたち家族もまた、東京から私の住む荻町に引っ越してきました。会えばいつも、Yくんやその兄弟たちと、野球をしたり、サッカーをしたり、ミニゴルフをしたり、カードゲームをしたり、音楽を聴いたり…。

 私は友達がたくさんいたわけではありません。むしろ学校に行っていない分、どうしても限られてしまいます。
 だからこそ、辛い時に何を聞くわけでもなく、ただ一緒に時間を過ごしてくれる人たちのことを、大切な存在に感じていました。

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 15〜6の頃、家庭の事情で東京に引っ越すことになり、そんなYくん家族とも離れることになりました。
 勉強をもっと深めたい、大学に行きたい、と思うようになっていた私は、引越しをきっかけに、不登校の子を受け入れている知り合いの数学塾に通いながら、大学受験に向けての勉強を始めました。

 でも、普通に学校で習っている人と比べると、例えば数学のなかでも、専門的な内容なのにわかる部分もあれば、基礎的なところでわからないこともあるなど、大きくズレがありました。
 だから、とりあえず中学1年相当の数・英・国の勉強から始めました。

 受験勉強では、今まで自分が好き勝手に学んできたこととのつながりに気づくことが多く、大半は面白いものに感じました。
 大分の家や友達から離れた寂しさも手伝って、この頃は勉強に夢中になっていたように思います。

 それから3年後には大検に合格し、さらには野生動物のことが学べる2つの大学に合格しました。
 そして19才の時、東京農大農学部に入学しました。

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 当初は大学生活もすごく心配でした。大学の勉強についていけるのか。友達はできるのか。
 でも、大学時代一番親しくしていた友達とは最初の健康診断の日に仲良くなり、勉強の方も心配で一生懸命ノートを取っていたら、ある日特待生に選ばれてしまい、びっくりしました。
 そんな感じで心配にはまったく及ばず、学業も課外活動も、非常に充実した大学生活でした。

 さてさて、長くなりましたが、次回は最終話。
 今の自分の想いについて書きたいと思います!

(野島智司)

投稿者 Kosodate : 11:52 | コメント (2)

2008年08月17日

第3話 大分での生活

 私は大分の田舎に引っ越す以前から、自然や生き物が好きでした。
 とりわけカタツムリが大好きで、学校にまつわる思い出は少ないですが、覚えていることのひとつが、家で飼っていたカタツムリが卵を産んで、それを学校に持って行ったことです。小さな卵から産まれたカタツムリは本当に小さく、虫かごの網の隙間から出てきてしまって困ったことを覚えています。
 そんな私にとって、田舎での生活が楽しくないはずがありません。

 私が7才くらいの頃、家族で東京から大分に引越し、農薬や化学肥料を使わない野菜やお米作りに取り組み始めました。
 野菜を植えたり、田植えをしたり、草取りしたり、収穫したり、子どもの私に力仕事はできませんが、その日その日の作業の場を共にしました。田植えが遅くても、自分のペースで全身泥だらけになりながら稲を植え、稲刈りができなくとも、落穂拾いをするなど、農作業には子どもにも子どもなりの仕事がありました。そして、田んぼに行けばカエルやヤゴやイモリに出会い、畑の草取りをすればミミズやオケラに出会い、どんな作業にも小さな楽しいことが潜んでいました。里芋の葉っぱの上で水滴を転がして遊んだり、田んぼで鍬を水面に滑らせて遊んだりするのも楽しみでした。
 自然に関わる作業の面白さは、収穫の喜びももちろんありますが、子どもにとってはそれ以上に、自分に適した仕事や楽しみがたくさん潜んでいるところにあると思います。大人の作業の真似事をさせられるのではなく、自分にできることを、自分の楽しみを見つけながらやれるので、子ども時代の私にとってもやりがいがありました。
 (ただし、子どもの頃はお茶をあまり飲まなかったので、大人のために働いているようで、茶摘みはちょっと嫌でした。。。笑)

 また、季節の山菜や果物を採るのも楽しみでした。季節によって道端におやつやデザートがあるなんて、今考えればぜいたくな生活だったなぁと思います。
 さらには、農作業の終わった田畑は貴重な遊び場になります。冬の田んぼは野球場であり、サッカー場でした。田んぼのデコボコに負けじと走り回ってフライを捕る練習したり、サッカーしたりしました。時には鍬やスコップを使ってピッチャーマウンドを作って、日々、投球練習を重ねました。
大分の田んぼ
 こうして書いていくと、現代的な生活には縁遠いように見えるかもしれません。でも一方、私はテレビも大好きでしたし、パソコンにもハマっていました。
 当時のパソコンは今のようにマウスで簡単に操作できるものではなく、インターネットもなく、プログラミングしなければ何も始まりません。そんなパソコンを使ってタコやゾウなどの動きや、風でしなる竹やぶの様子を模したアニメーションを作り、雑誌に投稿することもしていました。また、当時のワープロ専用機で、くだらないお話を創作したり、表計算機能を使って太陽系の惑星に関するデータをまとめたり、新聞を作ったり、誰に言われるでもなく何でもやってみることが楽しかったです。
 また、家にはたくさんの本があって、絵本があって、マンガがあって、決して読書量が多い方ではありませんでしたが、いつでも読みたい時に読みたいものが読める状況がありました。
 そういえば、当時使っていたフロッピーディスクには、よく泥汚れがついていました…。自然も電子機器も区別なく、遊び道具として使っていた証拠かもしれません。
里芋の葉っぱと水滴
 前回はホゲ娘のことを取り上げて、その遊びの広がりについて書きました。
 自然にも、テレビやマンガにも、パソコンにも、様々なものに自由に触れて遊べる生活だったから、ホゲ娘の遊びも広がったのだと思います。そこには、遊びを膨らませる素材が満ち溢れていました。

 さて次回は、そんな生活をしていた私が大検を受け、大学に進学するまでのことを書きたいと思います!

(野島智司)

投稿者 Kosodate : 10:19 | コメント (5)

2008年08月06日

第2話 ホゲ娘

ホゲ娘 私の子ども時代を話す時に、欠かせないキャラクターがあります。それが、写真の「ホゲ娘」です。
 これは、いつからか私の家にあった約2cmほどの消しゴム人形で、私と兄が名前を付けました。本来何のキャラクターだったのか、今もって不明です…。

 私は東京で生まれ、7歳ごろに大分県の荻町(現在の竹田市)に引っ越し、10年近くをそこで過ごしました。東京とは比べ物にならないほどの田舎で、隣の家に回覧板を回すために、順番によってはひとつ谷を降りる必要があったくらいです。
 そんな環境なので、自然のなかで遊ぶのは、あえて意識しないくらい当たり前のことでした。
 その一方、当時の遊びのなかでもっとも印象に残っているのは、こんな消しゴム人形を使った遊びです。

 もともとはいわゆる人形遊びのように、消しゴム人形を手に持って、兄と、消しゴム人形同士を会話させて遊んでいるだけでした。そんな遊びを繰り返すなかで、たまたま「ホーホッホッホゲッヘッヘッヘ…」という笑い方をさせたことをきっかけに、このホゲ娘というキャラクターが誕生しました。
 ホゲ娘はとにかくアホだという設定になりました。そして、他の人形たちも「ホゲ」と口走ると「ホゲ病」になり、彼女のアホが伝染してしまうことになり、この遊びは大きく盛り上がっていきました。

 そしてある時、「ほげの謎」というホゲ娘の解説本を作ることになりました。本を作ること自体好きだったので、彼女がいかなる人物なのか、骨格や脳みその構造まで詳しく図説した本を、兄と一緒に作りました。その本は家族にも読まれ、自分自身のこのキャラクターに対する愛着がますます強くなり、さらに遊びが展開するきっかけになりました。
 人形遊び自体も発展して、当時流行っていたキン肉マンやガンダムなどの様々な消しゴム人形を住民として、自分の部屋に彼らのまちを作るようになりました。そこは兄が何故だか「コカ国」と名付けました。ホゲ娘の住むコカ国では、お菓子の空き箱などを使って家を作ったり、紙幣をワープロで作って大量に印刷したりしました。そして、いろいろな商売も始めました。会社ができたり、アイドルグループができたりしました。一番上の兄が時々混ざってきて、宝くじの商売を始めて大もうけすることもありました。さらには、ときどき総選挙があって、「ホゲ党」を始め、様々な政党が生まれて選挙をすることもありました。
 自分の部屋は散らかり放題だったので、ホゲ娘が「行方不明」になることもよくありました。そういう時は、「片付け大会」という国の一大イベントとなり、それ自体が遊びの一部になりました。
 またある時は、ホゲ娘を主人公に、当時好きだったドラマのパロディー映画を兄弟総出で撮影しました。コマ撮り機能を使い、ミニカーを走らせ、土や石でセットを作って爆竹で演出したりしました。BGMやスタッフロールも、当時のパソコンでプログラミングして制作しました。
 またある時は、ホゲ娘に関するマンガを描きました。私はお話を作るのが好きで、当時はたくさんのマンガを描いていましたが、そのうちのひとつが、ホゲ娘を解説したマンガでした。

 こういう遊びは室内の遊びだと思われるかもしれませんが、映画撮影は庭で行なわれましたし、外で遊ぶこともよくありました。
 大きな穴を掘って、ホゲ娘たちを何ヶ月もの間土の中に埋めておいたり、冬はたらいの水の中に一晩浸けて、翌日氷から掘り出して遊ぶこともありました。
 お風呂で遊ぶこともありましたが、お風呂も家のなかではなく、外の独立した小屋の中にある、薪で沸かすタイプのいわゆる五右衛門風呂でした。そこは「おふろ国」と呼んで遊んでいました。そのまんまですね…。
 ともかく、室内遊びと外遊びの区別はほとんどありませんでした。

 その他、ホゲ娘にまつわる遊びを数え上げるときりがありません。多くの人たちが学校に行っている間、私はそんなことをして楽しんでいたのです。
 もちろんホゲ以外にも色々なことをして遊びましたが、ホゲ娘は当時の遊びを象徴するキャラクターでした。ホゲ娘は大分で生活する間、常に私の生活の中心にいたように思います。ホゲ娘がいなければ、今の私はないと言っても過言ではありません。
 こんな小さな消しゴム人形から、これだけの遊びが生まれるとは誰にも予測できません。何でもないようなことでも、自分が面白いと思うことをとことん突き詰めると、あらゆる方向に広がります。

 次回は、ホゲ娘が生まれるような生活とはどのようなものだったのか、もう少し生活全体のことを書きたいと思います!

(野島智司)

投稿者 Kosodate : 16:45 | コメント (4)

2008年08月01日

第1話 私が書いてみたいこと

koumori.BMP 今月のコラムを担当することになりました、野島智司です!
 コウモリの研究をしていたので、最近は「こうもり」と呼ばれることが多いですが、小さな頃からかたつむりに憧れている九州大学の大学院生です!
  以前、山下さんがこのコラムに「きんしゃいきゃんぱす」のことを書いていましたが、私もそこに顔を出している一人です。そのほか、福岡プレーパークの会のお手伝いをしながら、県内のプレーパークやフリースクールなどにもちょくちょく出没しています。

  自然が好きで、生き物が好きで、子どもに紛れてこっそり遊ぶのが好きで、落書きしたり、粘土をいじったり、写真を撮ったり、文章書いたり、ぼーっと空想したりするのが好きな、基本的にマイペースな人間です。
  私は独身ですし、自分の子どもがいるわけではなく、人に語れるほどの立派な活動を立ち上げたわけでもありませんし、何か特別優れた才能があるわけでもありません(汗)
 そんな私が子育てについて語るなんておこがましいのですが、ただ、私は一風変わった子ども時代を過ごしています。そんな自分の子ども時代のことを書くことは、誰かにとって意味のあることになるかもしれない、と思い、コラムを書くことにしました。

          ■□■□■□■□■□■□■□■□■□

 私は、小学校1年のときに学校に行かなくなりました。
 それから、19歳で大学に入学するまでの間、学校という場に足を踏み入れることはありませんでした。

 多少のきっかけはありましたが、何か特別嫌なことがあって、不登校になったわけではありません。
 私は3歳ずつ年の離れた三人兄弟の末っ子で、私が小学校に入学するころには、兄たち二人とも学校には行っていませんでした。そんな私にとって、学校に行かないことは特別なことではなく、生活の選択肢のひとつでした。
 端的に言えば、家にいる方が楽しかったから、学校には行かなくなりました。

 さて、現在大学院生の私がこういうことを話すと、必ず聞かれることがあります。

 「漢字はどうやって覚えたの?」
 「算数は誰に習ったの?」
 「友達はどうやって作ったの?」

 こういう質問ひとつひとつについて、内容を分けて回答していくこともできます。
 けれど、何かそういう項目に分けて答えてしまうと、いつももっと大切なことが抜け落ちてしまうように感じます。
 だから、最初からそういう形で書くことはしないでおこうと思います。

 このコラムでは、子ども時代の記憶を辿って、その頃の遊びなど、まずは当時の生活を中心に書いていこうと思います。そんな話の中から、何か伝えられることがあれば、と思っています。
 うまく書けるかどうかわかりませんが、よろしくお願いします!

 (ちなみに、こっそりと、ブログもやってます。「のじのじのーと」http://noji.at.webry.info/

(野島智司)

投稿者 Kosodate : 10:31 | コメント (2)

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