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我が家にぐりとぐらがやって来た!〜 第4話 雨のち晴れ、そして虹 〜

2008年11月28日

今は天国にいるおばあちゃんぶっちゃけると、私、小さな子どもって苦手でした。妊娠5ヶ月の頃、役場の保健師さんのご厚意で、同じく双子ママの1ヶ月訪問指導に同行させてもらうことに。小さな小さな、男の子と女の子の赤ちゃん。「抱っこしてみます?」と優しく双子ママ、私は「赤ちゃんってどうやって抱っこするんですか?」・・・苦笑するしかない保健師さんでした・・・。
そんな私が、1歳8ヶ月まで子どもたちを育てることができたのは、周りの人たちのおかげがあってこそ。今回は、私を支えてくれる人たちのことを紹介します。


まずは最愛のだんな様。カズとイチローを足して二で割ったようなルックス(と、スナックのお姉さんに言われたらしい(笑))と、気になるお腹周り。年が2つ下なので、歌番組を見ていると、「あ〜、この曲入社して2年目ぐらいに流行ったんだよね。同期の○○くんが歌ってたな〜☆」と、バブルOL時代を振り返っていると、「あ、オレ大学生やった」などと余計なツッコミ!

子どもが生まれるまではラブラブでしたが、今や「共に戦う同士」、といった趣です。
双子のいる我が家では、戦力になるかどうかが重要なので、たとえカゼをひいたとしても、「大丈夫?」の言葉ではなく、「どれくらい悪い?」と、まず役に立つかどうかの見極めをします。問われた方は、数字で悪さ度合いを答えます。1〜3ぐらいだったら、薬を飲んで気合いで乗り切れ!4〜6だったら、別室で休んでよし、7〜10の場合は、お義母さんのヘルプを仰ぐことも。

私と主人の違いは、おそらくおっぱいが出るか出ないかだけだと思います。おむつ、ミルク、食事(調理、子どもたちに食べさせる、後片付け)、お風呂、遊び相手、寝る前のハミガキ、絵本、全部同じレベルで(料理はむしろ上かも・・・)こなしてくれるので、安心して子どもたちを任せることができます。

今月、4回目の結婚記念日を迎えたのですが、ちょっとしたエピソードを・・・。
結婚1年目の記念日、式を挙げたホテルで食事をしていました。デザートになり、彼が取り出したジュエリーボックスらしきもの。「わ〜、嬉しい♪」と開けてみると、そこにはダイヤが一粒。「???・・・原石?指輪じゃなくて?ネックレスじゃなくて?ピアスじゃなくて?」彼は、「ごめんね、すぐには形(アクセサリー)にならなくて。でも、一年に一粒ずつ増やして、何年か何十年か後に形にできればいいなと思って。夫婦もそんなものかな、と思って」・・・彼の言葉に、私は自分の浅ましい物欲を恥ずかしく思いました。
昨年から、磨けば光る原石がもう2粒増えた我が家!主人と子どもたちという宝物に感謝です。


次に、主人のお母さん。世間一般でいうお姑さん、『嫁と姑』といえば、ドラマが一つできるぐらい永遠のテーマなのでしょうが、私は嫁いでこのかた、お義母さんのことを嫌いと思ったことは一度もありません。またまた〜、と言われる方もいらっしゃるかもしれませんが、お義母さんはこのコラムを見たりしないのですから本音です(笑)。

私の母は、今年3月末に亡くなりました。亡くなる1週間前の日曜日、もう子どもたちは見納めかな、と主人、お義母さん、子どもたちと5人でお見舞いへ。その頃には、痛みを抑えるモルヒネも量が増え、母がきつがる姿を見るのが辛いほどでした。声帯にもガンが転移していたので、声は出ません。厳しい状況が続いていた中、奇跡のように、少し容態が持ち直していた温かい日でした。
生来から人に気を遣う母は、お義母さんがわざわざ来てくださったと、しきりと恐縮の表情。ふと、お義母さんが病床の母に近づき、手を取りました。「大丈夫ですよ」と。頬に涙がつたう二人の間には、静かな時間が流れていました。誰も何も言葉を発しませんでした。私には二人の母に光がさしているように見えました。今では母代わりの叔母があとで言ったのは、「○○ちゃん(私)、あれはバトンタッチやったとよ」・・・私もそうだと確信しています。

忙しいお義母さんですが、時間をぬって子どもたちの登園、お迎えと、手を貸してくださいます。(長男夫婦と同居しているので、私たちとは別居)朝、子どもたちが着替えを嫌がり、ふざけてきゃっきゃっと逃げて回ると、「お母さん、騒々しくてすみませんねぇ。今日も孫たちは元気ですよ」と、鐘をチーン。お義母さん、いえ、お母さん、ありがとう。


そして実母。昭和12年生まれの母は、辛抱強く、厳しく、昔タイプの女性です。お母さんと友達感覚でデパートに買い物に行く、そんな今時の母親像ではありませんでした。

3年前に流産した後、半年以上妊娠の兆候が見られず悩んでいた頃。母に電話で「まだ赤ちゃんできんのよね〜」と相談すると、「あなたに母親になる覚悟ができていないから、神様が授けてくださらんのよ」と、ピシッと言われました。「覚悟かぁ・・・」仕事を辞めて専業主婦になったものの、目標が定まらず、気持ちが浮ついていた私にはこたえる言葉でした。

母は、昨年の12月に口腔ガンと診断され、1月に手術した時には余命2ヶ月と宣告されました。何が何だかわかりませんでした。ガンという病気の存在をどれだけ恨めしく思ったことか。しかし、病魔は着実に母の体をむしばんでいき、泣きながら北九州まで高速を往復する毎日が続きました。
後日叔母から聞いたのですが、母は癌がわかった時、「よかった、癌になったのが○○子(私)じゃなくて私で」と言ったそうです。それを聞いたとき、「あ、これが母親としての覚悟か」と、母の壮絶な覚悟に頭が下がる思いでした。

亡くなる前の日、意識のない母の側で、10年分の日記を読みました。少しの間短歌をしていたようで、日記にはさまれていたメモに、
「娘(こ)の帰り 怒りにみちて 寝間の中 足音聞くに 心なごむる」
OL時代、飲み歩いて帰りが遅かった私をずっと待っていたのです。今さらながらに親不孝を悔やんだりしています。

実家から見えた虹母の死後、親戚や知人から聞く母の話、彼女の生き方を誇りに思います。子どもたちのことを本当に可愛がってくれた、その母の遺志を大事に、2人をしっかり育てなくては。今度は私が母親になる番です。
亡くなる前の日、桜の花を一枝、病室に飾りました。あの時、「お母さん、桜が咲いたよ」の声は届かなかったけれど、写真の中の母は今日も穏やかな笑みを浮かべています。


子育てに悪戦苦闘し、時には涙することも。明けない夜はない、止まない雨はない。雨が降ったその後にこそ、きれいな虹がかかるもの。
涙を虹に変えてくれる、私の大切な人たちに感謝の気持ちを込めて。
そして、このコラムを読んでくださった皆さんの空にも、素晴らしい虹がかかりますように!
拙文でしたが、お付き合いいただき、ありがとうございました。

※今回の内容は、「みなみの風保育園」のブログにて既に公開されているものです。
どうぞご了承ください。

(桜子)

投稿者 Kosodate : 2008年11月28日 16:57

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