ふくおか子育てパーク

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2005年12月01日

しあわせは、ここにある。

イスに座った私の腰につかまり、妻の最後のいきみが脱力に変わる。兄ちゃんたち、あーちゃん(妻の母)、おばちゃん(妻の妹)、いとこたちが息を詰めて見守る中、にゅるりと出てきた。一呼吸おいて、元気いっぱいの産声。第三子、娘の誕生だ。
 自宅の和室で、出産という大仕事を果たした妻と娘は、そのまま床上げまでの約1ヶ月を、ゆったりとその部屋で過ごした。その間、妻の母と妹の強力なバックアップを受けつつ、在宅ワークの私が家事を担い、妻のケア、娘の世話に使える限りの時間を使った。
 贅沢で幸福な時間だった。

話は、ここから1年ほどさかのぼる。

私が役員を勤める会社は、私の強気な拡大戦略に従い、大きくなる所帯をまかなう当座の収入を得るために、少々赤字になるような仕事でも貪欲に取り続けていた。赤字を会社規模の拡大で隠していたのだ。社員は増え続ける仕事のために、常に過重に働かねばならなかった。さらに、他社との競争に負けないよう、製品に高度な機能を盛り込み、仕事の負担を倍以上にも膨らませていた。社員が苦労するだけではない。不要な機能を使いこなしてもらうため、顧客にまで過重な労働を強いていた。
顧客の仕事を豊かに、幸福にするはずの私たちの製品は、すこしの便利と引き換えに、顧客にも、社員にも、大変な苦労を背負い込ませていた。

この悪循環には、とうに気付いていた。
しかし、「今を生き延びなければ明日は無い」という大義名分のもと、それをやめることができなかったのだ。

ついに、あらゆる取引先に不義理を重ね、社員にも給与が払えない日がやって来た。

「逃げんかったら潰れはせん。」
言葉どおりに社長は踏ん張り、役員も共に責任を負った。
多くの社員が残ってくれた。不義理を重ねても取引先は辛抱してくれた。
「あたりまえの仕事をあたりまえに誠実にする会社」
そこを目指して新たに進み始めることになった。
そのためには、やり散らかした仕事を誰かが引き受けねばならない。
私がそれを背負う代わりに、会社の経営管理を手放し、在宅で私が一番やりやすいように仕事をすることを認めてもらった。

それから半年以上、顧客先を飛び回り、昼も、夜も、曜日も分からない、いつ寝ていつ食べたかも分からないような生活が続いた。
ようやく私が混迷のトンネルを脱したころ、会社も持ち直し、新たな目標に向かって進み始めた。
会社の成功に自分の幸福を重ねられなくなっていた私は、まだまだ忙しい残務と格闘しながら、「何のために生きてる?」「豊かさって何?」「幸福ってどこにある?」と、そんなことをテツガク的に考え続けていた。

そのころ、第三子の出産が近づく。
「ぼちぼち、出社してくる?」という会社から問いに、在宅のままで仕事を続けさせてほしいと要求。あっさりと認められる。よかった。とにかく、家族と一緒に居る時間がとても幸せだった。
「これって、煩雑な企業社会からの逃避なんかなぁ」
「自信喪失しとるとやろうか?」
そういった不安を感じつつ、24時間のほとんどを占めていた仕事の時間が徐々に減り、家事の時間、子どもとの時間、ネットワークの仲間たちとの時間が増えていくことを喜んでいた。

そして出産。
産着に包まれ、くにゃくにゃ動いている産まれたての娘。
泣いて、おっぱい飲んで、うんちして、眠って、泣いて、おっぱい飲んで....

「ああ、これが生きるってことなんだ」

生きるために必要なことって、本当は、それだけしかないんだ。
それが、ずーっとずーっと続いていくことなんだ。
私から、この子に、この子からこの子の子へ、この子の子から.....と。

それが、豊かであるということ、
それが、しあわせであるということ、
それを感じていたから、家族とたくさん一緒に居たかったんだ。
そして、我が子だけではなくよその子、近所の子、世界中の子が気になって仕方が無かったんだ。
その子らのために、私ができることをやっていきたい、と思った。

 くにゃくにゃ動く娘を見ていて、私のしあわせをはっきりと見極めた。

私のしあわせは、まだ達成してない事業の成功や、手に入れてないものを手に入れることではない。
私のしあわせは、たくさんの人たちに支えられて、今、ここに生きていること。
そして、私の子どもたちやたくさんの子どもたちが、生きることをつないでくれること。
私のしあわせは、今、もう、ここにある。
(子育てネットワーク研究会 のしぱぱ)

投稿者 Kosodate : 16:28 | コメント (3) | トラックバック

2005年11月26日

ネットワークでつながる、広がる...

平成9年。次男が誕生し、産休が育休に替わる頃、妻はちょっと興奮気味に、昼間出てきたとある会合の報告を私にしてくれた。
「乳幼児子育てネットワーク・ひまわり設立準備会」それが、会合のタイトルだった。
妻は迷うことなく準備会メンバーとなり、ネットワークの立ち上げに向かって走り始めた。次の準備会では保健師として壇上で発表するらしい。
「立ち上げ」と聞くと魂が騒ぐタチの私。妻の応援を兼ねてのこのこ付いていった。
おお、おもしろい!
 長男の反抗期と乳児の次男の世話を通して、子育ての面白さに目覚め始めていた私にとって、興味深い話が壇上で繰り広げられていた。しかし、それ以上に、今まで自分が出会ったことも無い人たちばかりが集まる場が、新鮮でイキイキとしていて、しかも居心地がよかった。
準備会スタッフが、「ひまわりネットは、子どもを中心に当事者だけでなく、専門家や支援者が同じ目線で繋がったネットワークです。」と説明していた。フロアにマイクが回ってくる。言いたがりの私は、いの一番に手を上げ発言した。
「子ども関係だけで無く、もっと広くいろんな分野の専門家が関わると良いと思う。私は、コンピューターとネットワークの専門家。きっと何かできると思う。」
 会場は、「????」という空気に包まれた。が、そんなことは気にしない。
 実際、1年ほど後には、コンピューターとネットワークは、子育てネットワークの大事な道具になってくるのだし。
 いずれにしても、相変わらず月に400時間以上も会社に入り浸りながらも、仕事の合間にチラシを作ったり、休日のイベントの運営や託児に入ったりといった形で、ネットワークの活動に入り込んで行った。
ほどなく、インターネットがスタッフ間に広がっていき、昼間のスタッフ会議に参加してない私でも、メーリングリストなどを通して、会議に意見をだしたり企画提案できるようになった。「夜間部」と呼ばれていた。仕事に明け暮れる父親でも、こんな形で参加できるんだ!と少々自慢げでもあった。

そして、ネットワークはどんどん繋がる。
子どものことを考えているひとは、隣町にも、県下にも、日本中にも、たくさんいる。
ひまわりネットと同じような子育てネットワークに関わる人たちが集まって、子育てネットワーク研究会が立ち上がった。忙しい人たちだから、何の制約も無いゆるやかな繋がりだ。
子どもの遊び、居場所、成長、発達、健康、食べ物、生活習慣、病気、保育、教育、市民活動、地域社会、異世代交流、男女共同参画、まちづくり、政治、経済etc...
同じようなことで悩み、考え、活動している人たちと次々に出会うことになった。
しかも、子育てという海は、コンピューター屋の仕事なんかより、もっともっと奥が深い。新しい人と出会うたび、私が、その海のほんの浅瀬しか見てないことを知らされた。

そうそう、もっと深みを覗かせてくれる人たちがいた。
我が息子たち、そして、ネットワークや保育園で出会うたくさんの子どもたちだ。
「なんかわかったかも!」激しいゲッテンを、うまくかわした。
しかし、それをはるかに凌ぐ新たな手立てで対抗してくる。
「いつまで、続くんだー」泣かれ続け、絶望の淵に立たされていた。
なのに、気付くとコギゲンで笑っている。
「わかんねぇーヤツぅ」いらだちとともに、嘆く日々。
ある日、あっけなく気持ちを察してくれている。
おなじことを繰り返しているような日々の中で、子どもたちは、確実にすごい速さで成長していく。
その育つ勢いに押されて、10代後半で止まってしまっていた私の人間としての成長が、少しずつ動き出した気がしていた。
(子育てネットワーク研究会 のしぱぱ)

投稿者 Kosodate : 00:03 | コメント (5) | トラックバック

2005年11月11日

大海原に突き落とせ!

 実家や唯一のママ友に支えられながら、勝手の違うわが子の子育てに翻弄されている愛妻。(他人様には子育てのアドバイスをしてきた@保健師)その実態を知ったからにはできる限りのことをせねば!と強く決心したわけでもない。が、首もすわり、寝返りを打つ頃から、ちょっとずつ「我が子よ」と思えるようになってきていた。
 さしものおっぱい星人も、一度おっぱいを補給すれば数時間は、突き上げる好奇心のままに、そこいらじゅうを這い回るようになっていた。これも父親にとっては追い風。ちょっとちょっかいを出しては、子どもの反応を楽しむ。もともと理系実験大好き少年の父親にとっては、面白い実験素材だったのかも知れない。ただ、この実験も、母親が遠くに行ってしまわないという条件がつく。ひとたび泣き出すと、父親の手には負えなかったのだ。出産後初めて母親が美容室に行ったときなどは、30分ほどで手に負えなくなって美容室に駆け込み、店内で息子を抱っこしたまま、母親のカットが終わるのを待った。
そのころ、母親に友人の結婚披露宴の招待状が届いた。父親は「うん、なんとかなると思う。行ってきていいよ。」と、潔く言った。多少泣き続けられても、なんとか耐えてみようと、自身を材料に実験を試みる気になったのだ。
 そして、その日。
時間を気にしつつ、母親は出かける準備。いつもと違う気配に、すでに不安げな息子。
「なんかあったら、ポケベル鳴らして。」
父親愛用のポケベルを身に付け、母親は出発した。果汁、よし!離乳食、よし!おむつ、よし!ガラガラ、よし!覚悟、よし!往復と披露宴の時間を入れて約6時間。父と子の耐久力実験が始まった。
 少し不機嫌からスタートして30分。いよいよ彼の不機嫌が臨界点を越えた。火がついたように泣き出す。おむつ異常なし、果汁効果なし。とはいえ、これは想定範囲内。彼を抱き、ゆっくりゆすりながら、なだめてみる。通用しないことはわかっているが、それでも1時間もゆすっていれば、たぶん眠るはずだ。
 しかし、寝ない。泣き声のテンションこそ低くなるが、泣き止むわけではない。
果汁を飲ませると、飲む飲む。あー、やっぱりのどが渇くんだ。しかし、泣き止まない。おむつがぬれていた。替えてあげる。でも、泣き止まない。離乳食は、泣きながら少し食べる。もちろん、泣き止まない。しゃーない、初めての経験だ。このくらいは泣き続けるんだろう。
 実験開始から4時間。泣き方に強弱はあるものの、泣き続けている。ひときわ泣き声が大きくなった。と、耳から黄緑色の液体が滴っているのを発見!
「これって、もしかして.....」
ポケベルを鳴らす。電話が掛かって来た。
状況を説明すると、
「あー、中耳炎やったんやん!!膿が出たんなら、落ち着くと思うけど。」
医療関係者らしく、冷静な判断だ。確かに。あれほど泣いていた息子は、ついにうとうと眠り始めた。念のため、休日急患に連れ込んで診察してもらった。
「こりゃー痛かったでしょうね。熱も下がっているし、もう、あんまり痛まないと思うけど。」そういえば、熱っぽかったような気もする。泣いているせいだと思っていた。
 休日急患から戻り、息子は再び眠りに落ちた。
かわいい。痛かったろう。すまんかったなぁ。
ほどなく母親も息せき切って戻ってきた。寝顔を見て、ようやく安心したようだ。息子にはかなり痛い思いをさせたが、おかげで、父親にも息子を育てる覚悟が芽生え始めた。突き落とされた大海原は、ほんの膝くらいの深さなんだと思うけど。
(子育てネットワーク研究会 のしぱぱ)

投稿者 Kosodate : 10:21 | コメント (7) | トラックバック

2005年11月01日

父親は船出せず・・・

 お母さんが、妊娠・出産を通じて「いざ、進まん!子育ての海原へ! 」と乗り出していく頃、お父さんは、「実感わかねぇー」「いや、父と しての自覚と責任を!」「こんなくにゃくにゃしたのがわが子か!? 」と、全く覚悟もできず、戸惑い、実感の無い子育て生活が始まるので はないだうろか?
少なくとも、私は、そうだった。

 四児の母・福さんを引き継いで、三児の父・のしぱぱが、今月のコラ ムを担当します。

 私が三人の子育てを通して感じてきたことをつづってみたいと思いま す。

 母親が、苦労して母になっていく姿は、福さんのコラムからも伺える。

 でも、父親のスタートラインは、もっともっと、遠いところにある。

 私が、今まで出会った全ての母親に対して「スゴイ!」と感じている ことは、親としての「覚悟」。私が居なければ、この子は育たない、と いう強い強い思いが、出産時点ですでに備わっているように見える。
 それに引き換え、私を筆頭に父親のなんとも腹の据わらないこと。
この覚悟の差は、とんでもなく大きい。

 そして、出産直後の母子密着。
 父親は記念撮影で取り落としそうになりながらわが子を抱え上げたき り、取り扱い注意のシロモノには、できれば触れないほうが安全と感じ 、自信ありげな母親に、お任せするべきと考えてしまうのも自然な成り 行き。
 ましてや、母乳で育てるとなると、父親の出る幕はない。
 幸福な母子密着の世界を、せめて邪魔しないようにしておこうと考え 、それを支えるために稼いでくるのだ!と張り切るのが、できた父親の あり方。母子密着の苦悩など理解するすべも無いまま、ますます仕事に 励み、母子と父との距離はじわじわと離れていくばかり。

 そうして約3ヵ月。
 どうも、母親の様子がヘン。いらいらしているし、不満で顔は膨らん でいるし、暗いし、ちょっとしたことで爆発する。
 今にして思えば、密室育児によるノイローゼの初期段階。
「ずっーと赤ちゃんと二人きり。あなたはちっとも帰ってこない。」
暗い声で母親は訴える。
しかし、父親は、仕事は山のようにあるし、それを果たすのがオレの勤めと言い訳する。もっとも、帰ったところで子どもをどう扱って良いか わかってない。3ヵ月たっても、ろくすっぽ抱いてないものだから、う
っかり落っことしたり、柱にぶつけたりと、ろくなことはしでかさない 。それでも、週に1度は、夜7時までには帰ってくることを約束するが 、ちっとも守れず、火に油を注ぐ結果に。

結局、母親は、宅配のおばちゃん情報で、同じマンションの上の階に赤 ちゃんが居ることを知り、密室育児から自力で脱出した。
一方、父親は、子育ての海原から、だいぶ離れた陸の上でオロオロし ているばかりだったのだ。
(子育てネットワーク研究会 のしぱぱ)

投稿者 Kosodate : 09:13 | コメント (8) | トラックバック

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