中村 奈良江 先生

~コミュニケーション~ 第6回 上手な話し方 

平成21年10月19日

 さて、私の担当もいよいよ最後になりました。これまでは、コミュニケーションの問題を子どもにどのような態度で接していくことが望ましいかというお話でしたが、今回は、子どものコミュニケーション能力を上げるにはどうしたら良いかというお話で終わりたいと思います。

 コミュニケーション能力が高いという事は、どういう事かはおそらく皆さんわかっていらっしゃるでしょう。自分の思っている事をはっきりと話ができ、相手の言う事をしっかりと聞き取って適切な言葉を返す事です。結局、自分の話したい事を言葉にする力と相手の話を理解する力です。自分の話したい事を言葉にする力は、話している中に主語がないとか語順がめちゃくちゃだとかいう文章構成上の問題や何を話したいのかよくわからないことから、はずかしくて話ができないという気持ちの問題まで関わっています。そして相手の話を理解する力は、相手が何を言いたいのかをしっかりとイメージでき、それができない時には何がわからないかを聞く事で解決させていく力まで関わっています。

 そして、これらは実はこれまでにお伝えしてきたような、子どもに対する接し方をしていると少しずつ培われてくるものです。
まず近くにいて話しやすい環境を作る事で、話にくいという壁を取り外すことができます。話を聞いてもらえる経験を重ねる事で話をする事の楽しさや喜びを知る事ができます。いろいろなことを一緒に考えてあげる事で、自分の考えをしっかりと把握する事ができるようになります。つまり自分一人で考えていてもお父さんやお母さんの言う「もう一度説明して」の言葉を、次第に自分の中で繰り返して、頭の中にお父さんやお母さんをイメージしながら頭の中で説明をして、自分の中で自分の考えをはっきりとさせていく事ができるようになります。仲間と教えあう事で相手に伝える練習ができます。話がよく伝わらなくて聞き返されたり、聞き返したりしながら、話が上手になっていくのです。

 この時に、同じ年齢の子どもたちとばかり話すのではなく、いろいろな年齢の人と話す事も大切です。小さな子どもに話す時にはわかりやすく言葉を変えて、年齢の上の人と話す時には丁寧に話をすることで、言葉の種類も数も増えます。また、どう話したらわかってもらえるかを経験することができます。これを繰り返すことで相手の理解の程度や気持ちを知り、話をさらに発展できるのです。結局コミュニケーション能力は、日々の経験の中で少しずつ培われるもので、そのためにはそのような機会を与えてあげ、話をできるように働き変えてあげる事がとても大切だろうと思っています。

~コミュニケーション~ 第5回 学習された無力感

平成21年9月3日

 私が通っていた中学校の標語に「無駄なく、無理なく、むらなく」というものがありました。通称「三むの法則」と言って「三む」をなくそうと努力していたように記憶しています。当時中学生であった私は、無理をしすぎたり、無駄が多いと、やろうとしていたことが続かないものですから、なるほど何でも毎日少しずつやっていけば良いものだと思ったものです。

 子どもたちの行動は「無駄」があり、すぐに「無理」をして、やる時とやらない時の「むら」ばかりで、なかなか結果が出ません。ですから、さっきのような標語ができたのでしょう。大人からみると子どもの行動は非効率的で、時間がかかるので、側で見守ることが我慢できないことも多々あります。そのため、つい口を出し、手助けをしてしまいがちです。これが行き過ぎると手助けにならないようです。それは結果ばかりを気にしすぎて経過を無視しているという理由ありますし、「無駄」の中にいろいろな経験が含まれているから重要だという理由もあります。そして他にも理由があります。

 さて、心理学の知見に「学習された無力感」というものがあります。これは、何度も失敗経験をすると、やってみる前に「どうせやってもダメだ」と感じて、やる前にあきらめてしまうというものです。この背景にある基本理論は、行動に対して罰などが与えられると行動が抑制されるのですが、罰がなくなれば、また行動は繰り返されるというものです。この理論どおりだと失敗経験の原因となった出来事がなくなると、やってみようとするものですが、そうならずにもっと強力に影響を受けて、いつまでもやってみようとしないということです。子どもたちへの手助けも上手にしないと同じことが起きます。よくコミュニケーションは発信する側と受け取る側で違った意味を持つことがあるというでしょう。大人が手助けのつもりでいても子どもにとっては違う意味を受け取っているかもしれません。子どもたちが自分はできないという意味を受け取ってしまうと、「どうせ自分でやってもダメだ」と感じて、自分のやり方でやろうとしなくなります。

 きっと「三む」をなくすのは子ども自身の手で試行錯誤しながら身につけていくものでしょう。個人的には「無駄」は、あった方がいいのかもしれない、と思っていますが。

~コミュニケーション~ 第4回 教えるという行為

平成21年8月5日

 ずいぶん前のことですが、インターネット上で子どものための科学相談に答えていた科学者が、「こちらの方がとても考えさせられます。」と感想を述べたものを見たことがあります。私たちは、教えるという行為について、知識の多い人が少ない人に知識を与えるだけと考えがちですが、そうでもないようです。これと同じような感想は、子どもたちの親からもよく聞くことです。

 教えるという行為の場合、教わっている人へは、主に知識が伝えられるようです。では、教えている側は何がかわるのでしょうか。どうも教えるという行為をとおして、自分の持っている知識の構造が再構成されることが多いようです。子どもたちに教えようとする時に私たち大人は、どういったら子どもたちが理解できるかを考えて、理解しやすいように言い方や例を工夫します。このように、教えてみると自分の考えがあいまいだった部分が明らかになったりします。また、思い違いをしているところが明らかになるかもしれません。実は人に何かを教えるということは自分の知識を整理し、構築し直すのにとても良い手段なのです。

 この教えるということは子ども同士でも是非やってほしいことです。でも時折、子どもたちの会話の中に、「教えてあげると損する。」という不思議な言葉を聞きます。時間をとられるから損をするのでしょうか?それとも教えたら自分だけが知っていることではなくなるから、優越感がなくなるということでしょうか?もし教えることが自分の理解を深めるために本当はとても役に立つ手段であることを、周りの大人が知っていて、それを推奨したら、きっと子どもたちはもっと教え合う環境を作り出すだろうと思います。もちろん、教えることは難しいことですから、大人がいろいろ工夫するように子どももいろいろ工夫しないといけません。大人はその努力を手助けしてあげないといけないでしょう。また、教えている子どもが途中でどうしていいかわからなくなったり、いらいらしだした時には、手助けだけでなく代わってあげることも視野に入れておくとよいようです。

~コミュニケーション~ 第3回 勉強の質問のやりとり

平成21年7月9日

 小学生の子どもたちとの話の内容はいろいろあります。お友達のこと,学校のこと,好きなこと,またどうしてもさけられないものに,学校の勉強のことも入りそうです。

 「おかあさん(おとうさん),これがわからん。これなん?」とお子さんが聞いてきたらどうしますか?課題の内容によって答えは違うかもしれませんし,その時の忙しさによって対応が違うことも考えられます。いつも同じ返事をしている訳ではないでしょうが,少し例を挙げてみました。「自分で考えなさい。」「あした先生にきいてみたら?」「うーん。お母さん(お父さん)にもわからない。」「いっしょに調べてみようか。」「お父さん(お母さんに)に聞いてみたら?」「それはね。こういうことよ。」このように書いて自分のことを振り返ってみると,これらの1つだけで返事が終わってしまうこともなさそうです。実際には,いろいろな組み合わせがありそうです。

 子どもたちの質問に答える時に,バリエーションに加えてほしい返事の仕方は,「もう1回言って,わからないところを詳しく説明して。」です。この返事の仕方は,子どもたち自身がさらに考えるきっかけを作ります。本当に要求していることは「自分で考えなさい」ということと同じことですが,わからないと言っている子どもたちに,何の方向づけもなく,もう一度考えさせるのは難しいものです。そこで,まず,問題を明らかにすることを要求します。でも表面的にはお母さん(お父さん)に説明するためですから,子どもたちは,同じことをただ繰り返すだけではなく,分析や解釈を加えて説明しようとします。次に,子どもの話した内容から「それって,何だった?」などともう少し詳しく説明してもらいます。または,子どもが算数などの問題を解いているとしたら,「どうして,そうしたの?」と説明をしてもらいます。こういうやり取りの間に問題が解けていることもありますし,やっぱり解決法を教えたり,「あした先生に聞いてみよう」になるかもしれません。でも,問題を解決しようとする努力や姿勢を学ぶことという観点からすると,こういうやり取りはとっても大切です。もし,うまく自分で答えに導けたら,必ず「自分でできたね。」「頑張ったらできたね。」「すごいね。」といって,努力の結果,問題が解けたのだということを言葉で確認しましょう。「お母さん(お父さん)のおかげよ。」というセリフは,子どもがもっと大きくなって,聞き流せるようになるまでとっておきましょう。

~コミュニケーション~ 第2回 親としてのスタンス

平成21年6月10日

 今回は、親としてのスタンスについてです。

 お父さんやお母さん達が子ども達と一緒に遊んで一緒に喜んでいらっしゃる姿を見ると、こちらまで楽しく感じることがよくあります。でも、もっとよく見ていると、人によって子どもに対するスタンスが違うことに気づかされます。

 さて、親が子どもの気持ちを汲み取る時に「子どもの気持ちに寄り添う」「子どもの目線で」という言葉をよく聞きます。私が、スタンスが違うと思ったのは、これらの言葉の解釈の違いから生じたものでしょう。つまり、『子どもの気持ちに寄り添う』や『子どもの目線で』と『子どもと同じレベルであること』を取り違えているかもしれない、ということです。

 私たち大人は、社会の中で生きていくために社会の秩序や他人への思いやりの必要性を知っています。でも子ども達は今から社会の秩序を知っていくのです。社会の秩序を守るためには、時には我慢しなければいけないこともたくさんあります。子どもとしては自分の思うようにしたいものです。でも、それを我慢し、現実を受け入れる時に、子ども達は、悔しかったり、がっかりしたり、悲しく思うことがあるでしょう。その子どもの気持ちに『寄り添ってあげる』ことが大切です。一緒に悲しんだり、悔しがったり、またはそっと見守ってあげることが大切です。『子どもと同じレベル』になって、自分の思うようにしたいという子どものわがままな気持ちに寄り添って、思う通りにしてあげてはいけません。

 また、同じようなことで「子どもの意思を尊重して」という言葉もあります。子ども達は何か決断を下さないといけない時に、大人と同じように選択肢のメリット・デメリットを比較して決断を下すことができません。どうしてもデメリットの方が気になって、デメリットを克服してがんばろうという気にまではならないようです。デメリットを隠しておくのは少し気がとがめますが、デメリットは言わないか、さもなければできるだけ控えめに示して、メリットを比較して決断を下せるようにしてあげることが大切です。

~コミュニケーション~ 第1回 時間と空間の共有

平成21年5月16日

 近頃よく、コミュニケーション能力の欠如という言葉を耳にします。コミュニケーション能力は小さい頃から、いろいろな人と話をしながら、また、話し方を学びながら上手になるものです。でも、コミュニケーション能力の欠如という背景には、失敗したら恥ずかしいという思いや、変なことをいって相手に悪い気をさせないかなど心配で、思い切って話ができないことが、結局言葉足らずを生み出させたのかもしれません。今回、私の担当では、小学生という幅広い年齢の子ども達に対するコミュニケーションについて考えてみたいと思います。

 本当は、上手な話し方を習いたいかもしれませんが、まずは、距離感をせばめる方法と話が弾みやすい空間的位置関係から初めてみましょう。子ども同士でも、大人と子どもとでも近くにいること、それが文字通り距離感をせばめる一番の方法です。側にいる時に、何かを話す必要はありません。側にいて同じものを見ているだけでいいのです。遠くにいると、声をかけるのにわざわざ大きな声を出さないといけません。声が小さいと相手に聞こえないので言い直さないといけないこともあります。言葉は思わず強くなり、社会的で形式的なものになりがちです。近くにいれば、微笑むだけで意志が通じることだってあります。目が合うだけでコミュニケーションがとれることもあります。これを重ねると、お互いに相手に対する好意が生まれるものです。これは単純接触の効果といって、ちゃんと実験で証明までされていることです。もし、一緒に何かをすることがあれば、それはもっとコミュニケーションをとりやすい状態になっていることになります。そんな時に自然に話しかけやすく、話が長続きしやすいのは、90度の位置関係だといわれています。ちょうどテーブルの角を挟んでとなり合って座っているような感じです。正面に面と向かってしまうと、時として圧力を感じてしまいます。会話が弾むためには目を見つめすぎず、しかし適度に目をあわせやすい90度の角度が一番いいのでしょう。

 さて、家庭の中では、子どもは遊びも勉強も子供部屋で、と考えている方が多いようです。でも、前述の話を考えてみても、少なくとも小学生の間は、親が家事や仕事をしている側で活動をし、時間と空間を共有することがとても大切です。どうしても難しいようなら、お互いが見えるだけでも距離感を縮めることができます。もちろん、ただ、側にいるだけでなく、時間と空間を共有しているというあたたかい思いが必要です。どんなに側にいてもそこに子どもがいることを感じてあげなければ子どもから発せられるいろいろなメッセージに気づくことはありません。