ふくおか子育てパーク

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2008年11月28日

我が家にぐりとぐらがやって来た!〜 第4話 雨のち晴れ、そして虹 〜

今は天国にいるおばあちゃんぶっちゃけると、私、小さな子どもって苦手でした。妊娠5ヶ月の頃、役場の保健師さんのご厚意で、同じく双子ママの1ヶ月訪問指導に同行させてもらうことに。小さな小さな、男の子と女の子の赤ちゃん。「抱っこしてみます?」と優しく双子ママ、私は「赤ちゃんってどうやって抱っこするんですか?」・・・苦笑するしかない保健師さんでした・・・。
そんな私が、1歳8ヶ月まで子どもたちを育てることができたのは、周りの人たちのおかげがあってこそ。今回は、私を支えてくれる人たちのことを紹介します。


まずは最愛のだんな様。カズとイチローを足して二で割ったようなルックス(と、スナックのお姉さんに言われたらしい(笑))と、気になるお腹周り。年が2つ下なので、歌番組を見ていると、「あ〜、この曲入社して2年目ぐらいに流行ったんだよね。同期の○○くんが歌ってたな〜☆」と、バブルOL時代を振り返っていると、「あ、オレ大学生やった」などと余計なツッコミ!

子どもが生まれるまではラブラブでしたが、今や「共に戦う同士」、といった趣です。
双子のいる我が家では、戦力になるかどうかが重要なので、たとえカゼをひいたとしても、「大丈夫?」の言葉ではなく、「どれくらい悪い?」と、まず役に立つかどうかの見極めをします。問われた方は、数字で悪さ度合いを答えます。1〜3ぐらいだったら、薬を飲んで気合いで乗り切れ!4〜6だったら、別室で休んでよし、7〜10の場合は、お義母さんのヘルプを仰ぐことも。

私と主人の違いは、おそらくおっぱいが出るか出ないかだけだと思います。おむつ、ミルク、食事(調理、子どもたちに食べさせる、後片付け)、お風呂、遊び相手、寝る前のハミガキ、絵本、全部同じレベルで(料理はむしろ上かも・・・)こなしてくれるので、安心して子どもたちを任せることができます。

今月、4回目の結婚記念日を迎えたのですが、ちょっとしたエピソードを・・・。
結婚1年目の記念日、式を挙げたホテルで食事をしていました。デザートになり、彼が取り出したジュエリーボックスらしきもの。「わ〜、嬉しい♪」と開けてみると、そこにはダイヤが一粒。「???・・・原石?指輪じゃなくて?ネックレスじゃなくて?ピアスじゃなくて?」彼は、「ごめんね、すぐには形(アクセサリー)にならなくて。でも、一年に一粒ずつ増やして、何年か何十年か後に形にできればいいなと思って。夫婦もそんなものかな、と思って」・・・彼の言葉に、私は自分の浅ましい物欲を恥ずかしく思いました。
昨年から、磨けば光る原石がもう2粒増えた我が家!主人と子どもたちという宝物に感謝です。


次に、主人のお母さん。世間一般でいうお姑さん、『嫁と姑』といえば、ドラマが一つできるぐらい永遠のテーマなのでしょうが、私は嫁いでこのかた、お義母さんのことを嫌いと思ったことは一度もありません。またまた〜、と言われる方もいらっしゃるかもしれませんが、お義母さんはこのコラムを見たりしないのですから本音です(笑)。

私の母は、今年3月末に亡くなりました。亡くなる1週間前の日曜日、もう子どもたちは見納めかな、と主人、お義母さん、子どもたちと5人でお見舞いへ。その頃には、痛みを抑えるモルヒネも量が増え、母がきつがる姿を見るのが辛いほどでした。声帯にもガンが転移していたので、声は出ません。厳しい状況が続いていた中、奇跡のように、少し容態が持ち直していた温かい日でした。
生来から人に気を遣う母は、お義母さんがわざわざ来てくださったと、しきりと恐縮の表情。ふと、お義母さんが病床の母に近づき、手を取りました。「大丈夫ですよ」と。頬に涙がつたう二人の間には、静かな時間が流れていました。誰も何も言葉を発しませんでした。私には二人の母に光がさしているように見えました。今では母代わりの叔母があとで言ったのは、「○○ちゃん(私)、あれはバトンタッチやったとよ」・・・私もそうだと確信しています。

忙しいお義母さんですが、時間をぬって子どもたちの登園、お迎えと、手を貸してくださいます。(長男夫婦と同居しているので、私たちとは別居)朝、子どもたちが着替えを嫌がり、ふざけてきゃっきゃっと逃げて回ると、「お母さん、騒々しくてすみませんねぇ。今日も孫たちは元気ですよ」と、鐘をチーン。お義母さん、いえ、お母さん、ありがとう。


そして実母。昭和12年生まれの母は、辛抱強く、厳しく、昔タイプの女性です。お母さんと友達感覚でデパートに買い物に行く、そんな今時の母親像ではありませんでした。

3年前に流産した後、半年以上妊娠の兆候が見られず悩んでいた頃。母に電話で「まだ赤ちゃんできんのよね〜」と相談すると、「あなたに母親になる覚悟ができていないから、神様が授けてくださらんのよ」と、ピシッと言われました。「覚悟かぁ・・・」仕事を辞めて専業主婦になったものの、目標が定まらず、気持ちが浮ついていた私にはこたえる言葉でした。

母は、昨年の12月に口腔ガンと診断され、1月に手術した時には余命2ヶ月と宣告されました。何が何だかわかりませんでした。ガンという病気の存在をどれだけ恨めしく思ったことか。しかし、病魔は着実に母の体をむしばんでいき、泣きながら北九州まで高速を往復する毎日が続きました。
後日叔母から聞いたのですが、母は癌がわかった時、「よかった、癌になったのが○○子(私)じゃなくて私で」と言ったそうです。それを聞いたとき、「あ、これが母親としての覚悟か」と、母の壮絶な覚悟に頭が下がる思いでした。

亡くなる前の日、意識のない母の側で、10年分の日記を読みました。少しの間短歌をしていたようで、日記にはさまれていたメモに、
「娘(こ)の帰り 怒りにみちて 寝間の中 足音聞くに 心なごむる」
OL時代、飲み歩いて帰りが遅かった私をずっと待っていたのです。今さらながらに親不孝を悔やんだりしています。

実家から見えた虹母の死後、親戚や知人から聞く母の話、彼女の生き方を誇りに思います。子どもたちのことを本当に可愛がってくれた、その母の遺志を大事に、2人をしっかり育てなくては。今度は私が母親になる番です。
亡くなる前の日、桜の花を一枝、病室に飾りました。あの時、「お母さん、桜が咲いたよ」の声は届かなかったけれど、写真の中の母は今日も穏やかな笑みを浮かべています。


子育てに悪戦苦闘し、時には涙することも。明けない夜はない、止まない雨はない。雨が降ったその後にこそ、きれいな虹がかかるもの。
涙を虹に変えてくれる、私の大切な人たちに感謝の気持ちを込めて。
そして、このコラムを読んでくださった皆さんの空にも、素晴らしい虹がかかりますように!
拙文でしたが、お付き合いいただき、ありがとうございました。

※今回の内容は、「みなみの風保育園」のブログにて既に公開されているものです。
どうぞご了承ください。

(桜子)

投稿者 Kosodate : 16:57 | コメント (0)

我が家にぐりとぐらがやって来た!〜 第3話「私の履歴書 『職業 母』」 〜

生後5ヶ月 この笑顔があるから頑張れる!今週に入り、急に冷え込んできましたね。皆さま、どうぞご自愛を。
さて今回は、私自身についてお話したいと思います。

まずは、産前、産後とbefore → afterの自己分析を。
【髪】美容院は月1。トリートメントにカラーリング、こまめなカットを欠かさない。
→ 美容院に行くには、子どもを誰かに預けないといけない!長かった髪をばっさり。髪を乾かす時間ももったいない。

【化粧】基本ナチュラルメイクだが、まつ毛パーマでメヂカラup!化粧水はSK?。
メイクは新色が出ると要チェック。マニキュアはベージュピンク。
→ もちろん毎日ノーメーク。人がびっくりするといけないので、眉だけは描く。
   化粧水は、400ml 999円、ドラッグストアで気軽に手に入るヘチマコロンを愛用。
   子どものツメを40本切らないといけないので、自分のマニキュアどころではない。

【洋服】働く女、シャツ、ジャケットに、ヒールの靴をカツカツいわせて颯爽と! 
→ ジーンズに、ぽっこりお腹、垂れたお尻が隠れるトップス。
靴は着脱容易なもの。もちろん底はフラット。

【バッグ】A4の書類が入り、流行をおさえたもの
→ 実は、ママバッグにはこだわりがあり、出産したらエルメスの“ガーデンパーティ”!と決めていました。雑誌に載っている、ブランド物のバッグを優雅に肘にかけ、ベビーカーは海外メーカーのもの、ママ友とのんびりカフェでお茶をするママのイメージ♪その夢は、最初の外出である3ヶ月健診でこなごなに打ち砕かれました。見栄を張って、通勤に使っていた、古いエルメスの手提げタイプのバッグを持って行きました。会場で、右手にバッグ、左手に首が半座りの長男。あれ?手が1本足りない・・・。そこではたと気がつきました。そっか、うちは双子だった・・・。
結論 = ママバッグは、両手があく斜めがけのもの、軽いもの、たくさん入るもの、そして安いものに限る!毎日、レスポを愛用してま〜す!

先日、久しぶりにガードルタイプの下着をはこうと、はみ出たお肉をパンツの中に押し込んでいました。すると、部屋の前を通りがかったパパ、「おっ、レーザーレーサー?スピードは出なさそうやね。あ、ズ(zu)ピード社の製品?」と、嫌味たっぷり。何も言い返せない私でした・・・(泣)。

以上、外観について分析してみましたが、今度は内面について。

私の履歴書ですが、大学を卒業し、大手メーカーに就職。学生時代に専攻した英語を活かし、部品を海外から購買する課に配属されました。当時は、リアルタイムで海外メーカーと、ファックスや電子メールでやり取り、特技を活かせる仕事にやりがいを感じ、充実した毎日を送っていました。プライベートでは、国際交流事業のボランティア活動に熱心に取り組み、かけがえのない友人を得ることができました。
30歳を機に、ずっと夢だった高校の教員に転職。それからの4年半、情熱と誇りをもって教壇に立ち、生徒の指導にあたりました。

初めての海水浴家族計画もあったので、2006年3月で退職。4月からは専業主婦だ〜!のんびりするぞ〜!NHKの朝ドラ見るぞ〜!とわくわくしていました。ところが・・・ベッドから出られず、涙が止まらず、「今日も生産性のない1日だった」「社会貢献できていない私には価値がない」「生きる意味って何だろう」と、マイナス思考の中をぐるぐる。当時を振り返ってみると、いわゆるうつ病のような状態だったのだと思います。
主人は、起業して間もない頃だったのに、そんな私に根気よくつきあってくれました。ある日、私が泣きながら電話して来たので、彼は仕事の途中で様子を見に立ち寄り、こう言いました。「ゼロに何をかけてもゼロにしかならないが、1に何かをかけると、少しでも前に進むことができる。だから1歩を踏み出そう!」はっと、胸をつかれました。このまま立ち止まっていてはいけない!大げさではなく、何だか暗闇に一筋光が射した気がしました。それから間もなく妊娠がわかり、少しずつ母になる準備を始めたのでした。

それまでの私は、社会において忙しいことこそが、仕事と思っていました。為替レートを気にし、いくらコストダウンできたか。生徒がいくつ英単語を覚えたか。
専業主婦や、子育て中には、「自己実現」という言葉は無縁だと思っていました。充実感、やりがい、といったものを見出す場所を、とんでもなく偏った価値観で捉えていたようです。

我が家に双子のぐりとぐらがやってきて、早1年と8ヶ月。私は、母が生きた証であり、子どもたちは、私が生きている証。母を亡くしたことは悲しいけれど、ゆっくり親育ち、子育ちしながら、彼らの母親であることに生きがいを感じています。
一時、「〜ちゃんのママ」という呼び方は、個々の人格を無視しているようで抵抗を感じる、という意見が話題になったことがありますが、私はそう呼ばれて幸せです。今、履歴書を書くとしたら、職務経歴欄の一番最後には、堂々と「職業 母」と書くでしょう。

以下のお話は、以前、学年集会の講話で生徒に紹介したものです。当時は、生徒への教育的効果をねらって話した内容でしたが、子どもたちの寝顔を見ていると、やっとこの話の本当の意味がわかる気がします。

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「無料です」
うちの小さな息子が、ある晩、キッチンで夕食の支度をしている私の妻のそばに来て、
何か書いたものを渡した。妻はエプロンを手でふいて、それを読んだ。

「芝生を刈った……5ドル。
 自分の部屋を掃除した……1ドル。
 お使いに行った……50セント。
 ママが出かけたとき、弟のめんどうをみた……25セント。
 なまゴミを外に出した……1ドル。
 いい点をとった……5ドル。
 庭を掃除した……2ドル。
      合計 14ドル75セントの貸し」

妻は返事を待って立っている息子の顔を見た。
さまざまな思いが妻の脳裏によぎっているようだ。
つと、妻はペンを取り、その紙の裏にこう書いた。

「十ヶ月間、私の中であなたが育つのを待って運んでまわったのは……無料。
いく夜も寝ずの看病をし、治るのを祈ったのは……無料。
この歳月、あなたのためにつらい思いをし、涙を流したのは……無料。
すべてを足してみても、私の愛の値段は無料です。
怖れで眠れなかった夜も、味わうとわかっていた心配ごとも……無料。
おもちゃも、食べ物も、着る物も、あなたの鼻をかんであげてのも……無料。
それを全部足しても、本当の愛の値段は……無料です。」

読みおえた息子の目に、久しぶりに大粒の涙が浮かんでいた。
彼はまっすぐに母親の目を見つめると言った。「ママ、ぼく、ママが大好き」
そう言ってペンを取ると、大きな字で、彼はこう書いた。

「ぜんがく支払い済み」


M・アダムス「無料です」 ダイヤモンド社『こころのチキンスープ3』1996年より引用
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母という職業に感謝しながら・・・今日も家族4人、川の字になっておやすみなさ〜い。
パパ、「『川』じゃないねぇ、一本多いね。あ、中州の『州』じゃない!? ^^ (←正確には『洲』)」
それって、パパの行きつけの場所やろーーーっ!!、とツッコミを入れつつ、今日も我が家の夜は更けていきます(笑)。

あ、よかったら外観、内面問わず、皆さんのbefore → afterを教えてください!(^_-)

※文中の「母 職業」という表現は、母=専業主婦という概念ではなく、子どもを持つ母親としての意味です。たくさんの“お母さん”(もちろん、お父さんにも!)にエールを送りたいと、このコラムを書かせてもらっています。語弊があるかもしれませんので、追記させて頂きます。

※今回の内容は、「みなみの風保育園」のブログにて既に公開されているものです。
どうぞご了承ください。

(桜子)

投稿者 Kosodate : 13:00 | コメント (2)

2008年11月14日

我が家にぐりとぐらがやって来た!〜 第2話「あら〜!双子ちゃん、大変ね〜」 〜

公園で改めて、登山万佐子さん、5回の連載おつかれ様でした。(前回の原稿提出時は、まだ連載中だったんです。)不安に押しつぶされそうになりながらも、妹さんも、お兄ちゃんも、そして万佐子ママも、前へ前へ。
いちばん心に残ったのは、第3話にあった、「(娘の出産が)もしかしたら本当に進むべき方向へ向かうためのものだったのかもしれません」のフレーズです。
私は、専業主婦である今、社会との接点を失いそうな焦りがあります。(育児と仕事との関りについては、次回お話する予定です。)でも、我が家に双子がやってきたこと、今春母が亡くなったこと、父の介護にイライラする自分、全てに大きな意味があると信じています。登山さんのコラムを読んで、それは確信に変わりました。ありがとうございました。

今回は、双子ならではの苦労話を、授乳と外出にしぼってご紹介します。とはいっても、もちろん子育ては何人でも大変です。(過去のコラムには、twin×twin-mamaもいらっしゃるのですから!)新米ママのグチと思って読んでくださいね。

二人をベビーカーに乗せて歩くと、必ず声をかけられます。(ほとんどがおばちゃん!)抱っこ
「あら〜、双子ちゃん!大変ね〜、でも年子より楽よ」 
→私「そうですね・・・(苦笑 双子も大変なんだけど)」
「どっちがお兄ちゃん?」
→私「こっちが2分早くお兄ちゃんです」
「一卵性?二卵性?」
  →私「二卵性です」
「どれぐらいで生まれたの?」
→私「1998グラムと2018グラムです」
「自然にできたの?」
→「はい、家系みたいで」
と、だいたい質問のパターンは決まっていて、主人いわく、「全部書いて、ママの背中に貼って歩いたら?」と(笑)。


【授乳】
「おなかがすいた〜!」のダブル泣きは、精神的にダメージが大きいものです。(同時に泣き喚く二人を前に、この頃のだんな様の言葉・・・『この世でこわいもの。地震、雷、火事、双子!!』)一人をずっと泣かせながら、「待ってね、もう少しだから」と声をかけながら(自分に言い聞かせながら)もう一人に授乳するのは、かなり辛い一時。同時におなかがすいた双子の欲求を、同時に満たすために、双子ママが取る秘技が、“同時授乳”!

まず、ソファに座り、「さぁ、やるぞ!」と気合入れ。授乳クッションをお腹にはめて、左側から長男をよいっしょ!、右側から次男をこらっしょ!と、フットボールのように二人を抱え、おっぱいを飲ませます。首がすわり体がしっかりするまでは、抱えあげるのもこわごわ、体勢を整えるまでが一苦労でした。1歳をこえて大きくなってくると、けっこうな重さなので、抱きかかえるのに力が必要。
ただ、歩き出した頃には、私が横たわりTシャツをめくると、右から左からさーっと寄ってきて、「吸いつく」というより、「食いつく」サバンナ同時授乳と、形態を変えました(笑)。

(おむつ、おっぱい、ミルク)×2に追われた新生児の頃。育児書にあった、「赤ちゃんの目を見て、微笑んでゆったりとした気持ちで、話しかけながらおっぱいをあげましょう。」という文章を見て、「けっ、できるか!」(失礼^^;)あ〜、おっぱいが2つあってよかった〜、と実感した母乳育児でした。

【外出】
我が家は、マンションの5階にあります。どうやって安全にふたりを車まで移動させるか、自分で歩けるようになるまでは、これが大きな難題でした。

1)荷物の準備 二人分のおむつ、ミルク、哺乳瓶、ポット(60℃に冷ましたお白湯)、着替え、おやつ等。  これだけで一抱え!
2)ふたりの機嫌を見つつ、自分も身支度をし、家を出るタイミングを計る。
3)玄関のドアを開け、二人乗り横型ベビーカーをセッティング。一人をおりの中、いやベビーゲートの中に残し、一人を抱っこしてベビーカーへ。
4)玄関のドアを開けたまま、残された一人を猛ダッシュで連れに。
5)エレベーターの幅はぎりぎり。おたおたしてると、母は時間切れでドアに挟まれそうになる。
6)マンションのエントランスから駐車場までは階段。幸いにも車は見えるところにある。ベビーカーのロックをしっかり確認。一人を抱っこして車まで小走り、チャイルドシートに装着。その間、ベビーカーからは目を離さない。
7)急いで戻り、残った一人を同じように車まで連れて行く。
8)ベビーカーを取りに戻り、よたよたしながら階段を下ろす。
9)ベビーカーを車に積み、出発!母はもうすでにグッタリ・・・。

ここまでの工程の長いこと!


双子育児というと、どうしても大変な側面がクローズアップされがちです。確かに、双子育児に苦労はつきものだし、楽しいことよりも、辛いことのほうが多いかもしれません。
でも、「あら〜、双子ちゃん!大変ね〜」のあと、「お母さん、頑張ってね」と、通りがかりのおばちゃんの励ましに元気をもらったり、子どもたちの寝顔に幸せを感じたり、
子どもたちが1歳8ヶ月になった今、最近では「大変ね〜」と言われても、「大変です。でも大丈夫です」と、そして心の中で「幸せです」と、言えるようになりました。

ショッピングモールなんかで、まだ小さな双子ちゃんを連れたママを見ると、「うちも双子なんですぅ♪」と、ついつい話しかけてしまう私。実は、前述のおばちゃん並にうざいかも!(笑)

(桜子)

投稿者 Kosodate : 10:39 | コメント (4)

2008年11月04日

我が家にぐりとぐらがやって来た!〜 第1回「双子誕生、親誕生」 〜

生まれたて初めまして、11月のコラムを担当することになりました、桜子と申します。
現在1歳8ヶ月の男の子の双子をもつ36歳の専業主婦、子育てには何よりも体力が必要と実感!あと5歳若ければ・・・と思う毎日です。

ご縁を頂戴し、我が家の子育ての様子を紹介させて頂くことになりました。
4回の連載で、第1話は妊娠中のエピソードを、第2話では双子ならではの苦労話を(というより、私の愚痴?)、第3話では私の経歴について、第4話では子育てを通して見えてきたことについて、書いていきたいと思います。
拙文でお恥ずかしい限りですが、どうぞ最後までおつきあいください。

まずは、スタンダードに妊娠中の出来事を振り返ってみたいと思います。
2006年2月28日17時36分、双子の長男ぐり:1,998グラム、2分遅れて次男ぐら:2,018グラムが、この世に生を受け、私たち夫婦のもとにやって来ました。

実は、その前に1度、12週と早い段階での流産を経験しています。
当時、沈んでいた私を励まそうと、周囲の慰めの言葉は、
「よくあること。10人に1人は流産する」
→私の心中「なんで私がその1人なの!」
「赤ちゃんができることがわかったんだから」
→私の心中「そんなこと言ったって、赤ちゃんは死んじゃったのに」
と、誰が何を言ってくれても納得がいきませんでした。
処置後、大きなお腹を抱えた幸せそうな妊婦さんに理不尽な怒りをおぼえたりと、心と体のバランスが取れず、しばらくは辛い毎日を送りました。

けれど、見えてくるものもあったのです。
手術を終えて実家に戻り、結婚前私が使っていた部屋のベッドに横になった瞬間、白くてパリッと糊のきいたシーツに、母の気遣いが感じられて涙があふれました。
当時勤めていた高校では、生徒に流産したことを伝え、こんな話をしました。「たった1ヶ月だったけど、私は足元に気をつけたり、栄養のバランスを考えたり、赤ちゃんのことを一生懸命考えて過ごしました。その時に、『あぁ、私は両親に33年間育ててもらった、と思ってきたけど、その前の10ヶ月も母は私のことを大事にしてくれていたんだ』、ということに気づいたのです。だから皆さんも、誕生日には今まで育ててもらった16年間+10ヶ月のご両親の愛情に感謝して欲しいのです。」

悲しい出来事でしたが、あの心の痛みを一緒に乗り越え、よりいっそう夫婦の絆が深まったと、今はとらえることができるのです。

妊娠中のデカ腹その後、2006年7月、市販の妊娠判定薬にブルーのラインが!
産婦人科を受診したところ、カーテンの向うで先生が「卵がいっぱいあるなぁ。2つ?3つ?う〜ん4つかな?」「ええっ?!・・・*☆※」聞いてみると、どうやら母側の血に双子の遺伝があるらしく、思いもかけないニュースでしたが、義兄からは「ま、○○ちゃんもそんなに若くはないし、いっぺんにすんでいいんじゃない?」と的確なコメント(笑)

4つのうち、力強く生き残った2つの卵が、現在の我が子たちです。
雑誌によくあるような、ハッピーで穏やかなマタニティライフとは全く無縁の生活。妊娠中は、とにかくつわりがひどく、最後の最後まで吐き気との戦いでした。

自分を励ますべく、ナカムラミツルさんの「いつもみてるよ。がんばってるの、しってるよ。」という本を何度手に取ったことか(おなかの中にいる赤ちゃんが、妊娠中のママを見守り、励ます様子が、心温まるイラストで綴られています)。
お気に入りのページをコピーし、家のあちこちに貼りました。ベッドの横にはタイトルを。眠れない夜は薄闇の中、何度もそれを見返す。トイレには、「つわりはしるし おなかにボクがいるってしるし ・・・ごめんね、ママ」を貼り、便器にしがみつきながら、おえっ、おえっと、涙目でそれを見つめる。主人には「もう妊娠に疲れた(涙)」と何度も泣きついたりもしましたが、周りの支えもあって、なんとか無事に予定の37週(予定帝王切開)まで迎えることができました。

辛いことが多かった妊娠生活でしたが、新しい出会いも。
町主宰のマタニティ教室で知合ったお母さんたちとは、今でも集まっては、子育てのストレス、だんなの愚痴(!)を言い合う仲。
講話では、むなかた助産院 賀久はつ先生の、「お産は過去の清算です」という言葉が心に残りました。「そっか〜、出産すると今までの男関係がチャラになるのか〜♪」帰宅して主人に報告すると、「そうじゃなくて・・・」と突っ込まれましたが(笑)。本当は、「お産を通して、心が清らかになる。感謝の気持ちを持つことができ、心がやわらかになる」という意味です。
今その意味がわかります。今年、桜咲く季節に逝ってしまった母に、産んでくれてありがとう。我が子たちに、生まれてきてくれてありがとう。三世代に渡る命のつながりを思います。

そうそう、産院の選び方ですが、人それぞれに決め手があることでしょう。
当初、妊娠♪、妊娠♪、と浮かれていた私は、まずはネットで情報収集。「きれい、高級感、リフレクソロジー、フランス料理、銀のカトラリー、焼きたてのパン」etcの言葉に飛びつきました!が、双子ということがわかり、主人、義母のアドバイスもあって大学病院に転院(私は最後まで焼きたてパンにこだわりましたが(笑))。
最初は外来診療棟の古さにビビリましたし^^;、入院中フランス料理も出てこなかったけれど、スタッフのスキル、プロ意識の高さに、そして彼らの人間性に触発されることの多い、思い出深い出産体験となりました。

2006年2月28日17時36分、38分、順番にこの世に生まれて来た二人。体をきれいに洗ってもらい、思い出したように「おぎゃー、おぎゃー」と泣き出しました。手術室に響き渡るその泣き声の大合唱ときたら、スタッフの方々が笑うほど。麻酔でぼーっとしながらも、「スミマセン・・・」と恥ずかしく、消え入りたくなるほどでした。
出産しての感想は、「感動!」とか「生まれてきてくれてありがとう」、なんてきれいな言葉ではなく、泣き声を聞いた瞬間、「なんだ?!、あの動物は!」、そしておっぱいに吸い付いた瞬間、「私って哺乳類なんだ・・・」。お産って原始的なものなんだ、ということを実感しました。
子どもたちが誕生、そして妻から母へ、夫から父へ、二人の親が誕生した瞬間でもありました。

先日、町主催で行われたツインママの会に参加しました。年に1〜2回、定期的に開催されています。周りから「双子は大変ね〜」とよく言われるので、ついつい”私は大変なんだ・・・”と(ホントに大変だけど^^;)「双子」ということに甘えてしまいがち。でもツインママの会に行くと、頑張っているのは私だけじゃない!といい意味での緊張感、背筋が伸びる思いをするし、反面、同じ苦労を共にしているので、居心地もよく、楽しみにしている集まりです。

3歳の女の子の双子を持つお母さんが、「そうね〜、1歳半で“やっと地獄を抜け出した”と思ったわ。2歳で“ちょっと楽になったかも”と感じて、2歳半で“もしかして双子って楽しい?”と気づき、今は、3人で手をつないで買い物に行ったりできるから“パラダイス”よ☆“」との、心強いコメント。
私はまだまだ地獄を抜け出したばかり(笑)。でも先にはパラダイスが待っている!と、自分を奮い立たせながら、日々子どもたちと格闘しています。

(桜子)

投稿者 Kosodate : 15:45 | コメント (5)

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