ふくおか子育てパーク

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2005年12月23日

大きく深呼吸しながら歩いて行こう!

去年の今頃・・・。私は「焦って」いた。
子どもも少しだけ大きくなり「自分の時間」が確保出来つつあった。
「何かしたい!」「自分を変えたい!」と焦っていた私。
運よく「乳幼児子育てネットワーク・ひまわり」(ひまわりネット)と出会い
流れ行くままスタッフになったのだが・・・。
その頃の私は周りの人に進められるままに「全て」吸収しなくては!と「焦って」いた。

「これ?出来る?」と聞かれると「はい。出来ます」と答え、
「これ?来れる?」と聞かれると「はい。行けます」と答えていた私。
ほとんど勢いだけで答えちゃって何も考えてなかった。

私のために誘ってくれていると考えると断ることが「悪い」ことのようで
ずっと、断るなんて出来なかった。そんな自分を変えたかったはずなのに。
無理してでも「頑張らなければ!」と1人回り状態・・・。
そんなコトをしているうちに息子が風邪を引き、こじらせ「肺炎」で入院してしまった。

この息子の入院は私にとって本当に大きな事件だった。
1週間、息子と一緒に過ごしながら改めて
「こんなに息子とベッタリ過ごしたことがあったっけ?」と反省した。
娘は私の実家に預かってもらったのだが
実は娘の顔を見るたびに私の方が「ホッ」とし、
入院3日目は娘を見るなり私は泣いてしまった。
それだけ私は息子の「初めての入院」に対して不安が大きかったのだ。
退院の日、息子と自宅に戻った時は「私の居場所はココだぁぁぁぁ」と心から安心した。
その日は娘とくっついて寝たのだが、
いまだに娘のぬくもりから離れられないのは私のほうだったりする。
私は本当に家族に支えられて生きている幸せ者だと思う。

その後は、1ヶ月程「ひまわりネット」のスタッフとして何もせず、
自宅で息子とのんびり過ごした。
その間は「何も変わらない日常」の大切さをかみ締めていた。
と、同時に「無理をしても何も得ないなぁ・・・」と漠然と感じた。

今は「出来ない」「その日は行けない」と誰に対しても言えるようになった。
すると自然と心から「ひまわりネット」での活動を「楽しめる」ようになった。
(mikan)

投稿者 Kosodate : 13:22 | コメント (4) | トラックバック

2005年12月17日

子どもの世界って・・・

今、私が住んでいるアパートは奇跡に近い貴重な場所だと思う。
結構、都心部の住宅地にも関わらずアパートの敷地内に公園があり
ココでは3歳から1人立ちOK!(子ども1人で外遊びOK!)
しかも裏山からは毎年ドングリが大量に落ちてくるし、
夏はバッタ、カマキリ、カナブン、セミ、だんご虫・・・など、いろんな虫が取れる。
息子はまだ2歳11ヶ月(1月生まれ)だけど、
最近は娘(5歳)と一緒に元気よく脱走をしている。

時々、ベランダからコッソリ覗いて見てみると、これが結構面白い。
子ども同士でケンカしているかと思えば
仲直りして遊んでいたり(笑)
大きな子が小さな子をしかっていたり
小さな子は大きな子にまとわりついていたり。
かなりバランスがいいなぁ・・・と大人の私でも感心してしまう。

特に私のお気に入りは子ども同士のおままごと!
それぞれ子どもの家庭が、そのまんま!って感じでとっても面白い。
男の子が片付けばかりさせられていたり(女の子達は指示をするだけ)
なかでも我が娘は1番人使いが荒く
男の子にアレコレ言うだけで自分は動かない。
「誰に似たんだろう?」ってダンナに言ったら
「ん?ママにそっくりやん」って一言。
が〜〜〜〜〜ん!そうだったのね・・・。
でも、これからは男の子も家事育児をしなきゃ!って開き直りつつ
チョッピリ反省する私・・・(同じくらい忘れるのも早いけど)

帰ってきた娘に「何の役だったの」って聞いたら
「お姉さん!!!」と元気な答えが返ってきた。
同じように息子にも聞いたら「赤ちゃん!」
・・・・。そうですか。赤ちゃんですか。
こんなデカイ赤ちゃんいないよって思いつつ
泥んこになって遊べる貴重なこの場所に感謝したい。
(mikan)

投稿者 Kosodate : 13:51 | コメント (2) | トラックバック

2005年12月15日

息子が生まれた時・・・2

陣痛が始まり、娘を両親に預け、やっと私は病院に電話を書けた。時間は・・・たしか23時頃。
「今から、そちらに行ってもいいですか?」
電話に出た看護婦さんは私に言った。
「24時過ぎてからの方がいいですよ」
24時前に診察を受けると1日分の料金がかかるらしい。ダンナに話すと
「とにかく病院に行こう、向かう間に24時過ぎるよ」
そうだ!病院まで車を飛ばしても20分はかかる。
「とにかく行こう!」
ダンナが荷物を持ち、そそくさと病院に向かった。

病院に着いたのは24時をチョット過ぎた頃だった。
「コチラに・・・」
と私は分娩室に連れていかれ、そこで病院が用意した服に着替え、早速内診を受けると・・・
「もう、6センチも開いてる!」
さすが2人目!などと私は感動していたのだが、助産師さんの様子が、どうもおかしい。
「キャッ!蹴られた!逆子だったよね?足から降りてるかも」
足って?それって?と私が陣痛と戦いながら必死に考えていると担当の先生が息を切らしてやってきた。先生が内診をして一言
「足から降りて来てますね。帝王切開しましょう」
陣痛の痛さと「普通に産めないんだぁ・・・」との気持ちから涙が出てきた。
すると看護士さんが
「あなた、ラッキーよ。今日の当直の先生、麻酔科の先生よ」
そうか、私はラッキーなのか・・・。でもナゼ?私は思わず考えちゃって気がついたら涙が乾いていた。
「もう産まれる〜〜〜!」状態で私は手術室に運ばれ、ココからはアッと言う間に息子が生まれた。横で処置をされ元気に泣いている息子を見て、ホッとした。

娘は普通分娩(36時間かかったけど)、息子は帝王切開。生まれ方は違うけど、今は2人とも元気に仲良く育っている。「案じるより産むが安し」って本当だなぁ・・・って思う。
(mikan)

投稿者 Kosodate : 09:38 | コメント (1) | トラックバック

息子が生まれた時・・・

 もうすぐ3歳になる息子が生まれた時のコトは一生忘れないと思う。(もちろん、娘の時も忘れないけど)
息子はかなり波乱万丈な生まれ方をしている。
 まず、妊娠8ヶ月で逆子になった。それまで順調だったのに、いきなり逆子!
「なんで???」
頭が混乱しながら、逆子運動に励む私・・・。それでも息子は元に戻ることなく「さて、どうしよう?」
産婦人科の先生いわく
「逆子でも普通分娩できますよ」
おぉぉぉぉ!目からウロコな先生の一言。お尻から降りてくれば・・・の条件付だったけど。
「普通に産めるなら!その方がいい!」
先生の一言で大きなカケに出た私・・・。絶対に普通に産んでやる!この時の私は、かなり鼻息が荒かったと思う。
 出産予定日が近くなってきた、ある日曜日。昨日の夜から様子がおかしかった娘が朝いきなり震えている。熱を測ると・・・41度!!!大慌てで近くの救急病院にダンナと一緒に娘を運び込んだ。
「これは・・・。インフルエンザですね」
娘は点滴を受けることになり、付き添っていると・・・あれ?お腹が張ってる?
ダンナはノンキに
「ココ病院だから、いざとなればココで産めるよ〜」
私も
「それもそうだね・・・」
なんて遠い目をしながら娘に付き添っていた。
 幸い娘は点滴が効いたのか少し元気が出てきたため夕方、自宅に戻るコトが出来た。すると、ホッとしたのか、お腹が痛くなってきた。本格的に陣痛が来たようだ。

 ・・・・次回に続く。
(mikan)

投稿者 Kosodate : 09:31 | コメント (5) | トラックバック

2005年12月08日

そして私の育児が始まった・・・

私が妊娠したのは5年前。
当時、私は彼(今のダンナ)と半同棲生活を送っていた。
妊娠を彼に伝えると「結婚する?」とあっけなく言うではないか。
私は一大決心!をして「出来ちゃった結婚」を選んだ。

無事に娘を出産した私は育児って楽しい!赤ちゃんって可愛い!結婚して良かった♪
と、なるハズだった・・・・しかし、現実は甘くない。
娘は夜泣きが激しい!育児書通りにいかない!何が何やら分からない!
初めての育児で戸惑ってばかり。なんじゃ!こりゃ〜〜〜って叫んでた。
ダンナは夜泣きが激しい娘を夜中ドライブに連れて行ったり
朝ミルクを与えたり、結構、手伝ってくれていたと思う。
それでも当時の私は不満だらけだった。
「私を娘と2人にしないで!」そう言ってはダンナとケンカした。
私は育児を1人で抱え込んでいた。
育児が出来ないなんて誰にも言えなかった。
周りの人にダメなママだと思われるコトが怖かった。

ノイローゼ気味になった私は娘を保育園に預けることにした。
コレが良い転機になった。
保育園の先生から娘の話を聞くだけで私は感動し落ち着いた。
その頃から不思議と娘にも笑顔が増えた気がして
私は初めて娘を「可愛い」と心から思うことが出来た。

そんな娘も、あっと言う間に5歳になった。
もうすぐ3歳になる弟もいて、毎日賑やかな生活を送っている
(保育園は退園し、今は幼稚園に通っています)
娘の寝顔を見ながら、私はフッと思う。
「娘を産んで良かった。私のところに生まれてきてくれてアリガトウ!」
(mikan)


投稿者 Kosodate : 16:50 | コメント (2) | トラックバック

2005年12月01日

しあわせは、ここにある。

イスに座った私の腰につかまり、妻の最後のいきみが脱力に変わる。兄ちゃんたち、あーちゃん(妻の母)、おばちゃん(妻の妹)、いとこたちが息を詰めて見守る中、にゅるりと出てきた。一呼吸おいて、元気いっぱいの産声。第三子、娘の誕生だ。
 自宅の和室で、出産という大仕事を果たした妻と娘は、そのまま床上げまでの約1ヶ月を、ゆったりとその部屋で過ごした。その間、妻の母と妹の強力なバックアップを受けつつ、在宅ワークの私が家事を担い、妻のケア、娘の世話に使える限りの時間を使った。
 贅沢で幸福な時間だった。

話は、ここから1年ほどさかのぼる。

私が役員を勤める会社は、私の強気な拡大戦略に従い、大きくなる所帯をまかなう当座の収入を得るために、少々赤字になるような仕事でも貪欲に取り続けていた。赤字を会社規模の拡大で隠していたのだ。社員は増え続ける仕事のために、常に過重に働かねばならなかった。さらに、他社との競争に負けないよう、製品に高度な機能を盛り込み、仕事の負担を倍以上にも膨らませていた。社員が苦労するだけではない。不要な機能を使いこなしてもらうため、顧客にまで過重な労働を強いていた。
顧客の仕事を豊かに、幸福にするはずの私たちの製品は、すこしの便利と引き換えに、顧客にも、社員にも、大変な苦労を背負い込ませていた。

この悪循環には、とうに気付いていた。
しかし、「今を生き延びなければ明日は無い」という大義名分のもと、それをやめることができなかったのだ。

ついに、あらゆる取引先に不義理を重ね、社員にも給与が払えない日がやって来た。

「逃げんかったら潰れはせん。」
言葉どおりに社長は踏ん張り、役員も共に責任を負った。
多くの社員が残ってくれた。不義理を重ねても取引先は辛抱してくれた。
「あたりまえの仕事をあたりまえに誠実にする会社」
そこを目指して新たに進み始めることになった。
そのためには、やり散らかした仕事を誰かが引き受けねばならない。
私がそれを背負う代わりに、会社の経営管理を手放し、在宅で私が一番やりやすいように仕事をすることを認めてもらった。

それから半年以上、顧客先を飛び回り、昼も、夜も、曜日も分からない、いつ寝ていつ食べたかも分からないような生活が続いた。
ようやく私が混迷のトンネルを脱したころ、会社も持ち直し、新たな目標に向かって進み始めた。
会社の成功に自分の幸福を重ねられなくなっていた私は、まだまだ忙しい残務と格闘しながら、「何のために生きてる?」「豊かさって何?」「幸福ってどこにある?」と、そんなことをテツガク的に考え続けていた。

そのころ、第三子の出産が近づく。
「ぼちぼち、出社してくる?」という会社から問いに、在宅のままで仕事を続けさせてほしいと要求。あっさりと認められる。よかった。とにかく、家族と一緒に居る時間がとても幸せだった。
「これって、煩雑な企業社会からの逃避なんかなぁ」
「自信喪失しとるとやろうか?」
そういった不安を感じつつ、24時間のほとんどを占めていた仕事の時間が徐々に減り、家事の時間、子どもとの時間、ネットワークの仲間たちとの時間が増えていくことを喜んでいた。

そして出産。
産着に包まれ、くにゃくにゃ動いている産まれたての娘。
泣いて、おっぱい飲んで、うんちして、眠って、泣いて、おっぱい飲んで....

「ああ、これが生きるってことなんだ」

生きるために必要なことって、本当は、それだけしかないんだ。
それが、ずーっとずーっと続いていくことなんだ。
私から、この子に、この子からこの子の子へ、この子の子から.....と。

それが、豊かであるということ、
それが、しあわせであるということ、
それを感じていたから、家族とたくさん一緒に居たかったんだ。
そして、我が子だけではなくよその子、近所の子、世界中の子が気になって仕方が無かったんだ。
その子らのために、私ができることをやっていきたい、と思った。

 くにゃくにゃ動く娘を見ていて、私のしあわせをはっきりと見極めた。

私のしあわせは、まだ達成してない事業の成功や、手に入れてないものを手に入れることではない。
私のしあわせは、たくさんの人たちに支えられて、今、ここに生きていること。
そして、私の子どもたちやたくさんの子どもたちが、生きることをつないでくれること。
私のしあわせは、今、もう、ここにある。
(子育てネットワーク研究会 のしぱぱ)

投稿者 Kosodate : 16:28 | コメント (3) | トラックバック

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